関係者の素顔に迫るインタビューを競馬ラボがオリジナルで独占掲載中!

和田譲治騎手

昨年、長きにわたってトップを牽引してきた戸崎圭太騎手のJRA移籍により、群雄割拠の様相を呈してきた南関東のジョッキー争い。その中でも、着実に成績を伸ばしてきたのが、戸崎ジョッキーの後輩にあたる大井競馬の和田譲治(わだ じょうじ)騎手だ。俳優顔負けの抜群のルックスもさることながら、一段と輝きを放っている本業で、注目度はうなぎ登り。30代という節目の年齢を迎えた今、和田騎手の魅力に迫ってみた。

和田譲治騎手、誕生の経緯

-:それでは、よろしくお願いします。競馬ラボで取材をさせていただくのは、初めてのことになります。プロフィールから教えていただきたいのですが、ご出身は鹿児島県とのこと。まず、騎手になるキッカケから教えていただけますか?

和田譲治騎手:よろしくお願い致します。僕は父の現役時代を知らないのですが、騎手をやっていまして(和田清文騎手)、後に牧場を経営していました。生まれた時にはもう牧場を経営していて、そこで育ったので、競馬が身近にあり、自然と騎手になろう、と思いました。

-:騎手のどんなところを見て、騎手になりたいと思ったのですか?

和:僕が小学校5年生の時に中央の桜花賞(勝ち馬ワンダーパヒューム)を見に行きました。その年は阪神大震災があって、京都でやっていたと思います。そこで感動して、騎手になろう、という決意ができたと思います。

-:それまでは競馬関係にそこまで興味はなかったのですか?

和:家の手伝いはしょっちゅうしていたのですが、騎手になる、という気持ちまでにはなってなかったです。桜花賞を観たのがキッカケですね。

-:その時が競馬の初観戦でしたか?

和:中央は初めてだったと思います。それからは高校も行かずに、中学校を卒業したら、騎手を受験しようと思っていたのです。

-:子供の頃の和田譲治少年。どんな子供だったのですか?

和:凄くほのぼのとしていて、超ルーズでした(笑)。

-:それは今もですか(笑)?

和:ハイ(笑)。それでいて、人見知りなところがありました。

-:やんちゃはやんちゃでしたか?

和:そうですね。ハハハ(笑)。今もそれほどではないのですが、多少はありますね。



-:そして、騎手になるために、地方競馬教養センターに入られたと思います。学校ではどんな日常でしたか?

和:訓練は凄く厳しかったのですが、みんな同世代で、仲良くしていたので、教養センターでの毎日は楽しかったですね。18人の同期は全員卒業したのですが、南関(南関東競馬)所属は沢山いて、その当時は大井が僕と有年(淳)と大澤(寛之)で、船橋が林幻と脇田(創)、川崎が前住(和寿)、浦和は笹原(直樹)がいました。あと、(廃止になった)高崎からも矢野(貴之)がきて、8人いました。今も5人いますね。

-:そんなに入ったのですね。皆さん、優秀ですね。和田騎手自体はなぜ大井所属になったのでしょうか?

和:僕は馬主の紹介で学校へ入る以前に決まりました。

-:地元である九州や西日本の方に行こうとは思わなかったのですか?

和:僕が1番最初に受けたのは園田でした。父が園田で乗っていたので。そこを落ちて、2回目から大井の方を紹介してもらいました。結果的には縁があってよかったです。今、考えると、環境的にも恵まれている大井でよかったです。

-:もし、ジョッキーになっていなければ、どんな大人になっていたと思いますか?

和:考えたことないです。父がそういう仕事でしたからね。正直、他に何の仕事をしているか想像がつかないです。

-:それでも、夢を叶えて今の仕事をしているって、改めて素晴らしいことですよね。

和:幼稚園か小学校の時に、「警察官」って書いていたのは自分で見ました。自分で書いたことは覚えていないのですが。

-:ジョッキーになろうと思ったら、一直線だったのですね。

和:やっぱり、父の影響が大きいですね。

-:お父さんが牧場をやっていた時も、ジョッキーという職業について、聞いていたのですか?

和:その頃は僕も分かっていないので、聞かされてないと思います。九州は普段テレビで競馬が放映されないので、そこまで競馬のレースが身近じゃないのです。鹿児島は競馬場自体がないですし、荒尾とか小倉まで行かないと見られませんからね。僕が自然に騎手を志したのは分かることですが、競馬に携わっていない一般の家庭でジョッキーになろう、と思うのが大変なことですよね。

-:馬も身近な環境ですものね。鹿児島出身のジョッキーは他に誰かいらっしゃりますか?

和:ただ、牧場が多いので、けっこういるのですよ。さすがに北海道よりはいませんが、馬産が盛んなのです。中央だと、四位さんや幸さん、小牧さんなどで、調教師の方もいますね。



迎えつつある充実期

-:では、無事に競馬学校を卒業して、デビューを迎えることになりましたが、デビューした頃や、初勝利のことは覚えていますか?

和:デビュー戦はさほど緊張していなかったのですが、先輩方と比べたら、全然体が動かないし、経験もなかったので、競馬の流れに全然乗っていけず、ケツでした(苦笑)。

-:13着でしたね。

和:全く人気がない馬ではなかったのですが、13着と全然ダメ。乗り鞍もそんなに乗ってなかったのですが、初勝利した時は“すまし顔”でハナ差逃げ切りました。

初勝利の馬の名前がスマシガオ

-:“すまし顔”だったのですね(笑)。デビューからは2ヶ月半くらい掛かっていますよね。

和:18戦目でした。自厩舎だったので、格別に嬉しかったです。

-:“すまし顔”でも嬉しかったのですね(笑)。ちなみに、勝負服の由来はありますか?

和:僕は最初に赤と青と白を入れたかったのです。その時に、僕がイメージしていた勝負服が久保勇一さんでした。まったく一緒じゃ通らないので、ちょっと変えようかなと。こうした理由は、これといってないのですが、柄は兄弟子の鈴木啓之さん、内田(博幸)さんがいたので、それを拝借した感じですね。

-:本当は赤、青、白にしたかったものの、紫になったのですね。しかし、似合っていると思います。

和:僕は変えたくてしょうがないのです(笑)。若い時に考える勝負服なので、年を取ると、慣れも出てきちゃって、ちょっと変えたいな、という本音はありますね。

-:今年で12年目、30歳になりますが、どんな20代でしたか?

和:成績が徐々に上がっていって、一時期は同じ位のペースでこられたのですが、ここ4年くらいは良い馬に沢山巡り会えています。それも、乗せてくれる先生(調教師)も増えてきたからで、勝ち星にもつながってきて、順調にきているかな、という感じはします。


「考え方が変わりました。若い時は何も知らなくて、競馬に関してもどうすればいいのか全然分からなかったのですが、先輩に意見を聞いたりして、少しずつですが、分かってきました。まだまだ勉強中ですが、昔よりはちょっとは身についてきたと思います」


-:いわば、「充実期」という感じですか?

和:物足りない部分もまだまだありますが、デビュー当初、若手の頃に比べたら良い感じできていると思います。

-:その順調度の秘訣を聞きたいです。去年の成績をみると、グンっとアップしています。キッカケや、自分の中で変わった、変えた面はありますか?

和:大井だけじゃなく、他場も乗せてもらえるようになったことで、勝ち星が挙げられましたね。当初は浦和を主に攻め馬をしに行って、そこで浦和の先生との縁ができました。

-:それがきっかけで他場に行くようになったのですね。

和:そこから、徐々に船橋や川崎も頼まれるようになりました。そこが大きいですね。

-:20代と今との違い、技術的な面や、メンタル面での大きな変化はありますか?

和:考え方が変わりました。若い時は何も知らなくて、競馬に関してもどうすればいいのか全然分からなかったのですが、先輩に意見を聞いたりして、少しずつですが、分かってきました。まだまだ勉強中ですが、昔よりはちょっとは身についてきたと思います。それは心身ともにいえると思います。

-:このまま順調に行けば、今年は100勝も超えそうですし、南関リーディング10位以内もいけそうです。あとは重賞を勝ちたいですね。

和:そう。今は重賞を勝ちたいですね。まず、1つは勝ちたいですね。

和田譲治騎手インタビュー(後半)
「悲願の重賞Vに足りないピースは自分自身」はコチラ⇒

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【和田 譲治】 George Wada

1984年 鹿児島県出身。
2002年 大井競馬よりデビュー。
地方初勝利:
2002年7月3日 大井競馬10R スマシガオ

父は園田競馬の元ジョッキーであり、現在は牧場経営を行っている和田清文氏。後に同じく大井競馬に所属することになる、有年、矢野騎手らと時同じくして地方競馬教養センターへ入所。無事に卒業を果たし、2002年に騎手デビューを果たす。
2012年に年間50勝、昨年は85勝と、近年は着実に成績を伸ばしており、ネクストブレイク間違いなしの存在。昨年、入籍を果たし、一層の責任感をもって、飛躍を誓っている。