JRA初の韓国重賞制覇の立役者に

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-:話は変わりますが、今年は韓国でエスメラルディーナ(牝4)に騎乗して、嬉しい重賞制覇がありました。同馬は既に引退してしまいましたが、その話も聞かせていただけますか。

藤:エスメラルディーナは先週、新潟で使って引退しましたね。引退は残念ですが、繁殖牝馬としても活躍してほしいです。今までも日本の馬主さんの馬は海外で騎乗させていただいたことはあるのですが、JRAの馬でレースに臨んだことは初めてでした。これまで外国に日本の馬が行った時にどう対応しているかというのは常に見ていましたし、当日は1番人気にも推され、順当ならば日本馬が強いとは思っていましたが、現地に対応したレースをしなければいけないと思って騎乗しました。

-:騎乗を振り返って、それは完璧に出来たと思いますか?

藤:韓国の馬は短距離ではすごくスピードが速いんですよ。今までも大井の所属馬が出るアジアチャレンジCでは常に韓国の馬がハナに行っていましたし、僕も実際に韓国の馬にも乗っていましたから、それはわかっていました。そういう傾向からも、前との距離は離されない方が良いですし、エスメラルディーナ自身も常に前々での競馬で砂を被った経験はなく、ああいう控えた競馬というのは初めてでした。でも、前に一緒に付いて行けば厳しい競馬になると思い、腹を括ってあの位置になりました。

藤井勘一郎

逃げていた馬を残り300mで交わしてからは、後ろからも蹄音が聞こえましたし、ラスト100mくらいまでは本当に分からなかったです。あの時は、1週間ソウルに遠征して、ノーザンファームの方、斎藤誠先生、鈴木調教助手や色々なスタッフの皆さんとチームとしてエスメラルディーナのレースに臨んだという思いがすごく強かったです。ですから、他のレースとは違う感情が湧き上がりましたね。

-:ご自身の騎手人生でも大きな出来事でしたか?

藤:そうですね。やっぱり「どれが一番」などと、簡単に順位を付けられないのですが、また違った環境で結果を出せたというのは、すごく大きかったです。

-:ちなみに、韓国競馬では何年くらいのキャリアとなりましたか?

藤:結局、3年間いましたね。初めは4カ月の契約で、6カ月、6カ月、6カ月とドンドン延長していったんですよ。あの競馬場も結果を求められますから、その6カ月の中で結果が出せなかったらすぐに免許は下りなくなる状況だったので、常に集中出来ましたね。


「今は韓国競馬がドンドン外国人を受け入れて、韓国競馬を発展させよう、盛り上げようとしていて、その流れの中で自分がいさせてもらって、受けた影響はすごく大きかったです」


-:ご自身でもやりきったといいますか、韓国は収穫があった競馬場でしたか?

藤:そうですね。今まで砂の競馬場をベースにしたことがなかったですから。オーストラリアはほぼ芝が中心でオールウェザーが何カ所かであり、シンガポールでも芝が中心でした。韓国はサンドの競馬で、日本からも地方競馬で実績を残している安部幸夫騎手や嬉勝則騎手、楢崎功祐騎手ら、名だたる騎手が一杯来られていたので、そういう方々と一緒にレースに乗れたことは大きかったです。それに、イギリスからダリル・ホランド、フランスや南アフリカからも短期でジョッキーが来ていました。今は韓国競馬がドンドン外国人を受け入れて、韓国競馬を発展させよう、盛り上げようとしていて、その流れの中で自分がいさせてもらって、受けた影響はすごく大きかったです。

-:韓国競馬の3年間では、何が一番印象に残っていますか?

藤:本当に些細なことなのですが、2012年にプサンから初めてソウル遠征に行った時に、大きなレースの前に1つ乗せてもらって、それで勝つことが出来たんですよ。その時に、自分はここでもやっていけるのだと自信がついた記憶があります。韓国へ行く前のオーストラリアでは厳しい時期がありましたし、逆にプサンではすぐに良い馬も回ってきて、周りが押し上げてくれたという印象がありました。しかし、そういうフラットな環境の別の競馬場で勝つことが出来て、何かそれが自分の自信になったというか、韓国のグランプリやダービーを勝ったことももちろん大きいのですが、何気ない平場の勝利がどこか自分の中で思い出に残っています。

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夢は世界を股にかけるジョッキー

-:今回はJRA受験を踏まえ、韓国競馬を引き払っていますが、もう1回戻りたいとは思いませんか?

藤:もちろん戻りたい気持ちはあります。韓国競馬も去年より今年、今年よりも来年と、ドンドンと国際競走も増えていますし、実際にアジアチャレンジCの日も国際競走が組み込まれて、成長をみせていました。僕としてはそういう国際的な舞台で活躍したいなという思いがありますし、理想としてはライアン・ムーアやジョアン・モレイラみたいに大きいレースをスポットで頼まれる、信頼されているジョッキーになりたいという思いはありますね。それをするためにも、やっぱり色々な地域で経験は積みたいです。

-:藤井騎手は、韓国以外でもオーストラリア、シンガポールなどで乗っていますが、海外競馬の面白さを教えていただけますか?

藤:海外で競馬をするにあたっては、やっぱり競馬だけじゃないですよね。そこに行くプロセスもすごく重要です。例えばビザの手配から始まって、飛行機で国境を越える。現地に着けば、土地ごとで日常生活、食生活まで違います。スーパーがどこにある、移動手段、そういう基本のレベルから違うわけじゃないですか。新しい所に身を置いて、やっぱりサバイバルですよね。今までの知人、友人はいない場で新しい人と遭って、それがまた違う人種で……。競馬に乗ることもそうですが、競馬以外の部分がすごく大きいのです。引っ越しをして、自分で騎乗馬を手配して、騎乗に辿り着くまでの道のりが本当に険しい。そして、新しい場所に行くとどうしてもヨソ者として見られるのですが、ヨソ者はどこでも最初に試されるのですよ。コイツどうなんだ?ってね。いわばマイナスの立場から、信頼関係をつくって「フジイに乗せてみたい」、「フジイで勝てる」というところまで辿り着いて、レースで結果が出る……。やっぱり壮大ですよね。競馬で勝つことに辿り着くまでは、本当に長いです。

藤井勘一郎

オーストラリア・ゴールドコーストで騎乗する藤井騎手(2010年撮影)


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-:それは1勝の重みが違いますよね。

藤:そうですね。だから、ホッカイドウ競馬でも初めは騎乗依頼を一ついただくのにも必死でした。所属厩舎の田中淳司調教師のバックアップはもちろんありましたが、以前、研修させていただいたノーザンファームの島田厩舎から依頼が来て、少しずつ勝てるようになりました。昔の偶然の繋がりが、また勝ちに繋がって、本当に不思議ですよね。

-:もとはといえば、藤井騎手もJRAの試験が受からなくて、こういう道を歩むようになったわけです。今振り返られると、こんなキャリアはどうでしたか?

藤:う~ん、やっぱりサバイバルですよね。僕自身、今度受け入れてくれる先がないとジョッキーを続けられないのです。今いる地で結果を出さないと次に繋がらないというのは、常に追い込まれているというか、そういう危機感がある一方で、どんどんチャレンジしたいという気持ちもあります。

-:正直な話、最初からJRAに受かるのだったら、受かっておきたかったと思いますか?

藤:それもちょっと分からないです。いざ日本の競馬界に入ったら、外に出にくくなるのではないかと思います。僕の場合は、外国のしがらみのないドライな部分を逆に利用し、ドンドン行動してこれまで自分の思ったことを出来た強みはありました。


「色々な地で成功されている方から何か吸収したい思いは、自分の中に常にありますね」


-:このキャリアがJRAの舞台で活きるとなお良いのですが……。最後にホースマンとして目指していること、ファンの皆さんに一言いただけますか。

藤:同じホースマンとして、野平祐二先生や岡部幸雄元騎手、藤沢和雄先生ら、そういう人にはやっぱり憧れますし、僕自身彼らの著書をよく読ませてもらっています。野平先生とは、僕が15歳の時にオーストラリアの競馬学校にゲスト講師に来られて、お会いしたことがあるのですが、今振り返っても偉大な人だったと思います。何年か前には藤沢先生のもとで研修をさせてもらった時も、一緒に食事をさせてもらう機会があり、色々な質問に本当に丁寧に教えていただきました。騎手と調教師、業種は違っても、勝つという目的は一緒じゃないですか。そういう本物に触れたい、という思いが僕の中で強くて、それは今、日本のホースマンで挙げた方々以外にも、例えばアイルランドのエイダン・オブライエン先生は実際にバリードイルに足を運んで、調教を一緒に見せていただいたり、オーストラリアではシドニーでリーディングのトレーナーにもよく騎乗依頼をいただきましたし、色々な地で成功されている方から何か吸収したい思いは、自分の中に常にありますね。

これまで、僕みたいな騎手は日本にはいなかったですが、毎日必死に夢に向かっています。次に日本で乗れる時まで、さらに技術を磨き、ファンの皆さんに騎乗を披露できると信じています。

(取材・写真=競馬ラボ特派員)

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