名伯楽・沖芳夫 名馬・弟子との濃密な32年間を振り返る
2019/3/7(木)
名伯楽のラストメッセージだ。今年も2月いっぱいをもって、数々の名ホースマンが定年により調教師生活を終えた。中でも沖芳夫元調教師はナリタトップロード、渡辺薫彦騎手(現在は調教師)とのコンビでその名を馳せた名伯楽。今回は管理馬最後の出走を終え、厩舎解散前日に師を直撃。2週にわたって手がけた名馬、弟子とのエピソード、また、馬作りの理念を語ってもらった。
-:長年の調教師生活、お疲れ様でした。これまでの経緯を振り返っていただきたいのですが、まず、開業されるまでの経緯を教えていただけますか。
沖芳夫元調教師:大学(東京農業大学)を1年、余分に行って、僕の1級上の人に、千葉の扶桑牧場さんの三代目にあたる中村勝五郎さんの長男の方がいて、その扶桑牧場さんが青森の八戸に牧場を造って、大学を出てから、そこに誘われて2年半いました。それから北海道に移って、それで2年半、静内のグランド牧場さんの方にいて。僕は生産牧場を夢見て行っていた訳だけど、やはり経済的なことや諸条件を考えると、自分で牧場をやるということは難しかったので…。
-:資金的なことですか。
沖:それもありますね。流れを作ることも大変でしたね。先輩でやっている方がいらしたので、その人を目指していったのですが、なかなか思うようになれなかった中で、先代のグランド牧場の伊藤さんから「それなら競馬場に入って調教師を目指してみないか」というアドバイスを受けました。
その頃、牧場にはいたけど、競馬の世界を何も知らなかったし、調教師なんて、そんなに簡単になれるものでもないだろうけど、その流れの中で「よろしくお願いします」ということになりましたね。僕の実家は東京の恵比寿だったのですが、結果として紹介してもらったのが(栗東の)大久保石松厩舎(元騎手であり調教師の)だったんです。
▲約32年にわたる調教師生活を振り返ってくれた沖芳夫元調教師(厩舎解散の前日・2月27日に取材)
-:今で言うと、かなりの名門厩舎ですね。
沖:そうですね。関東の大久保房松さんとかはだいぶ先で繋がるのですが、当然それぞれの受け入れる厩舎の人員などで、欠員がなければ入れる状態じゃなかったでしょうし、そういった中で大久保石松先生の厩舎を紹介してもらって、28歳の時、たしか1977年に栗東に来たんですよね。
-:当初は調教助手をされていたのですか。
沖:最初は厩務員さんの籍の空きもなかったので、攻め専という形でしたね。
-:生産の方を携わっていた人がトレセンに入って、いきなり攻め専になったということですね。
沖:乗馬はやっていて、馬には乗っていましたからね。それで、北海道の方でも育成の方にいたので、乗ること自体は乗っていましたので。しかし、戸惑いはありましたよ。ものすごく大きな戸惑いがありましたね。
-:具体的にはどんな戸惑いだったのでしょうか。
沖:乗馬や育成段階の馬と、第一線の競馬に出すためのトレーニングとは数段の違いがありますし、それに北海道のトレーニングでもそんなに大きな馬場で跨っていた訳ではないので。ここに来て、いきなり今のEコースで右も左も分からなかったですね。
-:コースは今と同じような施設でしたか。
沖:坂路はなかったですし、ウッドもなかったですね。「お前、これ乗ってこい」といきなり言われて、右も左も分からない中、周りの人に「どっちから行ったら良いんですか?」と聞きながら行って、Eコースで調教したことは覚えていますね。やっぱり全然スピード感が違いますし、そんなにスピードは出ていなかったのかもしれないけど、僕にとってはものすごいスピードに感じたからね。
-:そこで9年くらいいらして、あの間に調教師の勉強をされたのですか。
沖:まずは競馬場に慣れないといけないから、その時はちょっと調教師という言葉は飛んでいましたけどね(笑)。
-:一緒に働いていたお仲間の中で、僕らが知っているような人との出会いはありましたか。
沖:猿橋(重利)君が騎手デビューだったんですよ。今、飯田祐史厩舎の調教助手で攻め専をやっていますけどね。大久保哲夫さん、高橋隆さんなどが現役のジョッキーでしたね。
-:大久保石松厩舎で働く中で、もう一度、調教師になろうと思った理由はありますか?
沖:もう一度というよりも、とにかく現状に慣れることに精一杯でした。途中から1頭持ちになったのだけど、何年かしてから、新聞で調教師試験の結果が報道されたりした中で、ボチボチ勉強しないとな、というところから始まって、何年か掛けて準備はしましたけどね。受かったのは3回目でしたね。
-:開業されたのが1987年ということで、普通調教師さんは引退が2月の末で、3月から開業されるじゃないですか。先生の場合は10月に開業されたのですね。
沖:あの頃は2年待ちが当たり前で、定年制が出来始めていました。そういった流れの中で、2年後の春に開業予定だったのが、僕が夏の北海道に出張に行っている時に、いきなり競馬会から「(栗東に)戻ってくるように」と言われました。「向こうで攻め馬があるから戻れません」と言ったら「10月開業だから、何が何でも戻ってこないとダメだ」と言われて戻ってきて、夏に言われて、10月開業だったんですけどね。
-:けっこうドタバタだった訳ですね。
沖:ドタバタですね。当然準備する時間がなかったのも事実ですね。馬の仕入れは1世代分間に合わないということですよね。当然、次の年の春に競走年齢になる馬しか準備出来ませんから、その1年間はほとんど競馬が出来なかったですね。すぐではなかったけど、一番長かった時で4カ月間、8着までゼロというのがあったね。
-:しかし、お金の出入りはあるということですね。
沖:当然、出ていく一方でしたけどね。
-:かなり過酷ですね。それで、厩舎が安定してきたのはいつ頃でしたか。
沖:3、4年目になってからですね。確か2年目の年までに3勝しかしなかったかな。3年目の前半で確か土日で3勝したことがあって、うわっ、すごいなと思ったのは覚えていますけどね。
(※1986~1988年の間で合計5勝)
-:1年で3勝しかしなかったのに、1週間で3勝もするんだ、と。初めての重賞勝利は1989年でしたね。
沖:ダイイチオイシという馬で、あの頃は函館「3歳」Sですね。おそらく当初は他の方の厩舎に行く予定だったのが、ウチがやらせてもらえることになった経緯があった馬ですね。
-:ダイイチルビーと同じオーナーさんですね。格別の喜びがあったんじゃないですか。
沖:格別というか、ビックリしましたね。新馬は勝っていたので。だいたい「ステークス」は新馬勝ちの馬がほとんどですけど、初めての重賞ということで嬉しかったですけどね。
-:ニュージーランドTのシェイクハンドは芹沢純一ジョッキーで勝たれたのですが、あの当時の主戦は(松永)幹夫さんだったのが乗れなくて、芹沢さんになったということでしたね。
沖:デビュー戦が松永君だったんですよ。この馬は世界のミスタープロスペクターの子ですからね。
-:しかも、母系がヌレイエフですからね。
沖:ええ。それで、(ノースヒルズの)前田オーナーから「セリで馬を買ったから、やってみるか?」と言われて、「はい」と答えたら「ミスタープロスペクターだから」と言われた時は本当に信じられなかったですね。そうやって声を掛けてもらって、ウチがやらせてもらえることになって。中京のデビュー戦もあまりにもテンションが早くに高くなっちゃったので、暮れの阪神デビューの予定を前倒しさせてもらって、中京でデビューしたんですよ。そのデビュー戦で騎乗命令が掛かって、松永君が跨ったら突っ張って一歩も歩かなくなって、松永君がちょっと指示をしたら、そのまま後ろにバク転。パドックで人馬転倒したんです。それでもデビュー戦は勝ったんですけどね。
芹沢君に1回目に打診した時に当初は「行けません」ということでしたけど、僕が北海道に行く時の飛行機に乗る間際に、芹沢君から携帯に電話が入って「やっぱり乗せて下さい」という話だったので、もしあれが飛行機に乗る前じゃなかったら、どうなっていたか分からないけど、「分かった、それじゃ頼む」ということで、ニュージーランドTは芹沢君になったんですけどね。
-:今の時代のスピードだったら、すぐに芹沢さんから違う人に替わっていたでしょうね。
沖:当然、違うジョッキーを早めに確保しなければいけなかったのですが、1回断られて「行けない」ということでしたね。当日はオーナーが来て、一緒にパドックのオッズを見たのを覚えていますけどね。何番人気(7番人気)だったかな…。そんなに人気はしていなかったと思います。
-:それでも勝つんですね。
沖:あれだけの血統。世界のミスタープロスペクターだったから、ここで重賞を一つ勝てたということで、大喜びをしたことを覚えていますね。
-:肩の荷が下りた感じですね。ニュージーランドTの時は7番人気じゃないですか。それで、ニュージーランドTを勝つ前のエルフィンSで、ダンスパートナーを負かしているんですね。それもすごいことですね。ニュージーランドTを勝った後の芹沢さんのコメントで何か覚えていることはありますか。
沖:とりあえず独特な笑顔で喜んで「やりましたぁ~」と言っていたのを覚えていますけどね(笑)。