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ナリタトップロード、渡辺薫彦騎手との出会い

-:そのエリモシックが勝った年が1987年なのですが、1994年に渡辺薫彦ジョッキーが騎手デビューしているということで、沖先生と言えばやっぱりペアですからね。

沖:(ナリタ)トップロードと渡辺のセットという感じで、それにちょっと加わっている感じですけどね。

-:どんな出会いだったのですか?

沖:お父さんがウチで厩務員をやっていたんですよ。

-:エイシンモアオバーとかを担当されていたんですよね。

沖:そうです。お父さんの方から「ウチの息子が騎手試験を受けるのだけど、所属させてくれないか」という話が最初あったんですよね。ただ、最初お父さんと話をしたのは「ウチじゃなくて、ヨソで探した方がいいんじゃないか」と。ウチに所属して、応援することは一つですけど、「ヨソの厩舎でデビューしたら、その厩舎とウチで応援出来るから、出来ればヨソの厩舎でデビューさせた方が良いんじゃないか」と言ったのだけど、最終的になかなか所属と言ったって、みんなが良いですよ、と言って決まる訳じゃないからね。

最終的にはウチで所属する形になったんですけどね。競馬学校に入る前にちょっと目方が軽過ぎて、珍しいケースかもしれないけど、学校からも「体重が軽いですね」という話があったんですけどね。今でも酒井学君とか松若風馬君はメチャクチャ軽いから、当然軽い方がそういった部分では斤量に関係なく頼めるけど、ある程度、自分の体重の方が、自分の体重でバランスが取れるから「もう少し身に付けても良いんじゃないか」という話は、学校の方からもあったんですよね。

渡辺薫彦調教師

▲今年のシンザン記念で調教師として重賞初勝利を挙げた渡辺薫彦調教師
沖元調教師とは騎手時代から続く師弟関係で知られる

-:トレセンに入ってからの渡辺ジョッキーのイメージとしては好青年という感じでしたね。

沖:例えば、芹沢君みたいに、ちょっと癖の悪い馬だったら「ちょっと僕の腕の見せどころですね」というようなタイプだったり、勝負師といいますか、勝負に向かったらすごいヤツもいるけれど、こういう世界としたら、やっぱり性格が大人しい感じは確かにありましたよね。

-:先生とのペアリングで言うと、先生も穏やかと言うか。

沖:僕もその辺はワーワーしゃべる方でもなかったのですが、僕から見ても大人しいなという感じはちょっとしていましたけどね。

-:デビューしてからしばらくして、ナリタトップロードとのコンビが出来る訳ですけど、ナリタトップロードと先生との出会いはどういう経緯だったのですか。

沖:先代の山路オーナーから、毎年1頭以上は(所有馬を)やらせてもらっていたんですが、その当時、オーナーが「何頭かウチで考えている馬がいるから、その中から選んでもらえないだろうか」ということで見に行って、確か3~4頭の中から選ばせてもらったのがナリタトップロードだったんですよね。

-:その3~4頭の中から、先生がナリタトップロードを選んだポイントというのはどこだったのですか。

沖:体つきがステイヤー体型だったからね。バリバリの短距離より、2000前後といった距離のある方がどちらかと言えば好きだったんですよ。やっぱり観ていても、駆け引きがあって、1200のような短距離だとゲートで終わったなとか…。もちろん短距離でも一杯駆け引きはあるけど、長い距離での駆け引きは観ていても面白いと思うんですよね。だから、そういう馬の方が好きでした。(阪神牝馬特別2着の)ベストダンシングもバリバリ薄手の、そういう体型ですから。

-:胴がちょっと長くて、手脚も長い感じですね。

沖:ちょうどそんな感じでしたね。

-:ナリタトップロードは、先生の期待通りに2回目の新馬戦で勝って、福寿草特別(3着)を使って、4戦目のきさらぎ賞でエイシンキャメロンに勝ったということで、この時は馬としては初重賞制覇でしたが、期待値としてはドンドン上がっていったんじゃないですか。

沖:当然ですよね。夏の北海道に入厩して、ちょっとトレーニングをしたら、橈骨骨膜が分かって、オーナーは「夏にデビューしたいな」ということでしたけど、ちょっとまだ無理かなと思いながらやっていて、骨膜があることが分かって、放牧に出すか、そのままやるかちょっとスタッフと相談して、とりあえず在厩のままやってみようかということで、結局北海道でトレーニングをしながら栗東に来て、やっぱり時間は掛かっているけど、これも阪神デビューだったんですよね。

-:半年近く掛かってデビューしたということですけど、馬は嫌気を差したりしないものですか。

沖:それは大丈夫ですけどね。

-:それで、2戦目で勝って、きさらぎ賞、弥生賞と連勝する訳ですから、それは皐月賞が見えてきますよね。

沖:それはもう当然意識はしますよね。

-:使いつつの状態で、皐月賞前はいかがだったですか?

沖:デビュー戦から1戦目、2戦目までは、レースが終わって上がってきたら口角が切れて、血が付いている状況だったんですよ。道中ガッチリ掛かってしまうような感じの競馬をしていたので、やはり距離の長いところでは折り合いが付かないと、と感じました。3戦目の時に渡辺に「位置取りは二の次で良いから、とりあえず折り合い最優先で競馬をするように」ということで伝えました。あの時は3着だったと思うのですが、その時にようやく口を切らないで上がってきたんですよ。それから競馬で口を切らないようになったんですよね。

-:そのきさらぎ賞、弥生賞連勝の陰には、福寿草特別の3着で競馬を教えたということですね。

沖:そうそう。そうやって馬が少しずつ我慢してくれるようになったということですね。

-:なおさら皐月賞は気が入りましたか。

沖:ただ、僕はその頃から中山は少し馬場が渋りやすいイメージを持っていて、皐月賞の時はだいぶ前から天気予報を気にしていたのですが、案の定、そんな中でやっぱり雨が降って、止のだけど重かったんじゃないかな。やっぱりあの馬は跳びが大きくて、とにかく馬場が渋るのが嫌だったんですよね。だから、皐月賞の時は馬場がだいぶ渋りましたので、ちょっと気になったんですけどね。それで、あの時は向正面でちょっと内に入っちゃったのかな。それでも最後ジワジワ来たので、よくあの馬場で頑張ったな、というのはありましたけどね。

-:上がってきたジョッキーは何とおっしゃっていましたか。

沖:「少し馬場が気になってしまいました」ということは言っていましたけどね。

-:それで、この時に勝ったのが人気のなかったテイエムオペラオーだった訳ですけど、そこから伝説的な怪物との戦いが始まって、同世代に怪物がいるというのは、ナリタトップロードにとってかわいそうな部分じゃなかったですか。

沖:いや、それは逆にライバルがいるということは、自分の世界でもそうかもしれないけど、強い中で戦っているということは良いことだと思うんですけどね。

「やっぱり『走っちゃった馬』を見るとダメなんだよね。馬の名前でもそうでしょ。初めて聞いたら変わった名前だなと思うけど、オープン、G1に出てくると、すごく良い名前に聞こえてくるというのがありますからね」


-:この馬をどうにか負かせる手はないかというのは、けっこう考えられたんじゃないですか。

沖:その頃はまだオペラオーだけを意識しているというのはなかったですけどね。

-:ダービーの後もなかったですか。

沖:いや、ダービーは先着しましたからね。

-:ダービー、菊花賞は負かしていますからね。

沖:そう。だから、テイエムオペラオーに対してはまだそこまでのイメージはなかったんですよ。

-:次の年から快進撃が始まった訳ですからね。

沖:ずっと同じレースになって、どうしても勝てないという競馬になって…。

-:当時、岩元先生とトレセンの中で会った時の会話で、何か覚えていることはありますか。

沖:いや、岩元先生も(調教に)乗りっ放しだったし、僕も馬に乗っていたし、馬場ですれ違うくらいで「テイエムオペラオーとはどうしても使うところが一緒だね」ということは言っていましたけど、なかなか落ち着いて話し合う機会というのはなかったですね。

-:先ほど「ナリタトップロードを決める時に、ステイヤー体型だったから」という話があったのですが、オペラオー自身も見栄えだけで言えば、薄めの馬だったし、そんなにしなかったと思うんですよ。馬体を見て、そんなに走ると思う人は少なかったと思うのですが、実際に先生がオペラオーをご覧になっていた印象はいかがでしたか。

沖:やっぱり「走っちゃった馬」を見るとダメなんだよね。

-:走るように見えてくるということですね。

沖:だから、馬の名前でもそうでしょ。初めて聞いたら変わった名前だなと思うけど、オープン、G1に出てくると、すごく良い名前に聞こえてくるというのがありますからね。

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