名伯楽・沖芳夫のラストメッセージ ナリタトップロードとの秘話 馬づくりのポリシーを語る
2019/3/14(木)
-:今の3歳の時期のトップロードはオペラオーともそんなにというか、逆に勝ち越しているのですが、4歳の時期になると逆転されてしまうということですね。
沖:とうとう勝てなかったですね。
-:挙句の果てには「渡辺ジョッキーが上手く乗れていないのでは…」という話から、乗り替わりということもありましたね。
沖:あれは僕の頭の中にはあったのでね。他の方にも少しお話はさせてもらったけど、確かに3着、2着と来た時は、特にダービーはありがたいことに1番人気でしたから、オーナーの方には、他のオーナーや報道関係者から「若い渡辺じゃなくて、他のジョッキーはどうですか」ということを随分言っていたと思います。
でも、山路オーナーはそういうことを一切一言も言わなかった。本当にそれはありたいことだと思っています。それで有馬記念の時に乗り替わったんですよね。特に、暮れの中山で、その前にステイヤーズSを使ったと思うのですが、僕は(開催)1週目の馬場なら何とかと思ってステイヤーズSに行ったら、馬場がジュクジュクしていたんですよ。雨が降っていないし、良馬場なのにと思ったら「水を撒きました」という話だったのですが、それで4着だったのかな。
だから、特に暮れの中山というのは、あの馬の適性にはあまり適していないという感覚だったから、有馬記念にはずっと積極的ではなかったんですよ。でも、オーナーからは「選ばれたら行こうよ」という流れがあったし、当然選ばれれば、オーナーからしたら有馬記念という一つの舞台ですから、多分暮れの有馬記念では辛いなと思ったんですよね。ずっと勝ってきていない中で、有馬記念ということだから、初めてこちらの方から「1回ジョッキーを替えてみましょうか」という話をしたんですよ。
暮れの有馬記念で、乗り役のせいで負けたと言われるのもちょっと嫌な気持ちもあったし、それで当時、調教師試験に受かっていた的場(均)君に頼んだんですよ。「地元のジョッキーで馬場もよく知っている人に頼みましょう」ということで、成績は当然、挙げたいけど、挙がっちゃったらまた逆に辛いこともあるかもしれないな、ということが頭の中にありましたけどね。でも、的場さんはジョッキーとしては2月までの現役だったから。
-:ピンポイントで乗っていただくにはピッタリですね。それと言うのは、山路オーナーがいかに先生を信頼していたかというのが伝わってくる話なのですが、こちらサイドとしては、有馬記念直前に沖先生と渡辺ジョッキーの相談というのは何かあったのですか。
沖:いや、その後で、騎手変更させるということについては、説明はしませんでした。中間にも、山路オーナーが入院している時にオーナーから「次のレース、ユタカ君(武豊)が空いているのだけど…」という話が1回だけあったんですよ。その時はもうレースが近かったし、「渡辺でお願いします」と言ったら「分かった」ということで、それだけだったし、それが有馬記念の前だったかどうか分からないけど、渡辺には「また戻す」からという話はしておきましたけどね。
▲最後のG1出走となったフェブラリーS(ワンダーリーデル)
-:結果的に、有馬記念は3番人気で9着でしたね。やっぱり馬場が合わなかったですか。
沖:だから、結果は良くあって欲しいけど、やっぱりな、という感じでしたね。
-:それは、トップロード自身の能力が落ちてきている訳ではなくて、ただ単に馬場の得手、不得手だった訳ですね。
沖:そうですね。あの脚質としては、よほどパンパン馬場で条件が揃わないと、ちょっとでも水気があると嫌なイメージは持っていましたのでね。
-:今の有馬記念の方が馬場は硬いですから、今ならもうちょっと成績が良かったんじゃないですか。それで、翌年も阪神大賞典を勝って、これはまた渡辺ジョッキーが乗っていましたね。
沖:予定通り的場さんが調教師になったので、そこで戻したということですね。確かその時がレコードだったのかな。
-:その後、四位ジョッキーに替わっていますね。渡辺ジョッキーがケガをして、乗り替わったということですね。3戦乗って、最後の有馬記念は渡辺ジョッキーが乗って、引退ということでしたね。
沖:やっぱり有馬記念は(ファン投票で)1番人気になっていましたので、それでオーナーと相談して、引退レースということで…。
-:シンボリクリスエスが勝ったレースでしたね。
沖:だから、合わない、合わないと言っていても、ラストランということになったら、やっぱり一つの舞台としては有馬記念というのは、ましてやファン投票で1位ですからね。
-:振り返ってみれば、先生が牧場で見た時から、思ったような活躍は出来たんじゃないですか。
沖:思ったようなというよりも、見た時にあそこまで走ると思うことは無理かもしれないですね。でも、そういうステイヤーの血で競馬が出来て、結果が出せたということはすごく嬉しかったけど、まさかあそこまで走って結果を出せるとは、その当時はそこまでは…。
-:血統を見ると、お父さんがサッカーボーイじゃないですか。
沖:サッカーボーイは2000mまでの血統ですよ。でも、結果G1を獲ったのは、ティコティコタックとウチで2000を超えているんですよ。だから、体型はサッカーボーイではないんですよ。サッカーボーイは、どちらかと言うと筋肉質で2000mまでだったから。ただ、確かにサッカーボーイの子供に興味があったのも一つなのですよ。
-:けっこう苦労された馬ですか。
沖:乗っている攻め専は1頭で行って、僕は調教をして、前日に後で追い掛けるという形だったから。
「僕が一つ後悔しているというか、良い状態で、良い馬場の東京競馬場でもう一回競馬をしたいなと思っていたのは事実です。ようやく出られたけど、そういう状態の後で、本当にどうかな、どうかなという中でやっていた時のジャパンCで3着だから」
-:トップロードの良い思い出も、苦い思い出もありますか。
沖:(京都大賞典で)1回ゴール前で落馬があったでしょ。
-:ステイゴールドが失格になったレースですね。
沖:そうそう。馬が厩舎に戻ってきて、全く動けなくなったんですよ。だから、曳こうが何をしようが動けない状態で、スクんでしまっているというか、それでどこを触っても分からないし、このまま置いておいたら帰れなくなるから、みんなと4~5人で何とか馬運車に押し込んで帰ってきました。
-:泊まることが出来ないですからね。
沖:動かすことが出来なければ、泊まるでしょうけど、馬房が狭いので、やっぱり安心できる自分の馬房に戻れるのなら、出来るだけ戻してやりたかったし、それからは本当の手探りでしたね。獣医さんがどこを触っても、体を硬くして、どこが痛いのか何も分からなかったですね。
-:普通の状態で押さえてピクッとしたり、そういう仕草がないと分からないということですね。
沖:それで「念のために色々なところをレントゲンで撮りましょう」ということで撮ったけど、それも別に問題ないし、どれくらい休んだかはハッキリ覚えていないけど、ちょっと運動してみようかとか、常歩をちょっとずつして、跨ってみようかということで、軽くダクを踏んだり、駈歩をやってみようかという感じで、随分と時間を掛けて、普通の調教に戻していって…。結局、大きな治療というのは何もなかったんですよね。それで、最初のレースがジャパンCでしたね。
-:この間隔というのは、けっこう早いですね。だって1カ月半ですよ。10月7日の京都大賞典で落とされて、ジャパンCが11月25日ですから。
沖:そんなに短かったかなぁ…。それで3着ですよね。ただ、3~4コーナー辺りでちょっと手が動いたので、一瞬やっぱり使わない方が良かったのかなと思ったんですけどね。
▲沖師にとって最後のJRA重賞勝ち 2013年の根岸S(メイショウマシュウ)
-:やや急仕上げでしたか。
沖:その前の年にオペラオーなどに負けていて、賞金加算が出来なくて、ジャパンCに出られなかったんですよ。僕が一つ後悔しているというか、良い状態で、良い馬場の東京競馬場でもう一回競馬をしたいなと思っていたのは事実です。ジャパンCにようやく出られたけど、そういう状態の後で、本当にどうかな、どうかなという中でやっていた時のジャパンCで3着だから。
-:京都大賞典での落馬がなければ、もうちょっと順調にジャパンCに出られたんじゃないかということですね。
沖:そうですね。心身ともに良い状態で、良い馬場の東京競馬場で競馬をしたかったなという思いが、引退した頃はそれだけ出来なかったという記憶がありましたね。
-:先程の通り、有馬記念は馬場が合いそうになかったわけですもんね。
沖:それに必ずパスしていたのが宝塚記念ですね。休むのは夏しかなかったし、まして宝塚記念の頃は梅雨の時期なので、それはオーナーに了解を取って、必ずパスをして、北海道の白井牧場さんの方に放牧に行っていたんですけどね。
-:でも、G1を勝てて良かったですね。
沖:それはもちろん良かったですね。引退レースの有馬記念が終わった後、オーナーが「もう1年競馬をしようよ」と言ったのですが、その時に社台(スタリオンステーション)さんに置かせてもらう交渉をしていたんですよ。それで、社台さんのところは「種馬は満杯だ」という話で、オーナーは「社台さんところで預かってくれなかったら、もう1年現役を続行しようよ」とおっしゃっていて、最終的に吉田勝己さんがご兄弟を説得して、トップロードが入れるようにしてくれて、そのまま種馬になったんですけどね。
-:種馬としてはいかがでしたか。
沖:3世代ですね。それで、この馬の場合は、現役を上がる最後の1年くらい前から、調教で馬っ気が出始めたんですよ。だから、出来るだけちょっと牝馬を避けたりだとかしましたね。だから、種馬の展示会はものすごく元気が良かったから、種馬場の人が「大変だったでしょう」と言っていたから、3年でも頑張ってくれて、種馬として牝馬にいっぱい接触出来て、例え3年だったけど、それはそれであの馬にとっては幸せだったのかなという気持ちはありましたけどね。
-:渡辺ジョッキーも先生の厩舎にずっと所属して、調教師になられて、先生からバトンを繋いだ形で、調教師試験を受かった後も、厩舎にいたということですね。この間、初めて重賞(シンザン記念のヴァルディゼール)を勝たれましたからね。
沖:勝ってくれましたね。やっぱり重賞というのは一つの勲章ですから、良かったなと思いますけどね。
-:開業して早い時期に重賞を勝たれましたから、この先も明るいんじゃないですか。何か調教師としてのアドバイスはされたのですか。
沖:最初に開業する間際は、元ジョッキーは色々な馬主さんに声を掛けてもらいやすいんですよ。やっぱり競馬で名前も知られているという部分で、声を掛けてもらえるのはすごくありがたいけど、やっぱりみんなに首を縦に振ったら、絶対に馬が集まり過ぎて、却って迷惑を掛けるから、最初はちょっと慎重に、ちょっとお時間を下さいとか、馬主さんに対して預かれない時の応対は特に気を付けるように、とは言いましたけどね。「声を掛けたのに、俺の馬を預からなかった」と思われる方もいるし、やっぱり事情をちゃんと話して…。
-:出来る範囲のことをやりなさいということですね。
沖:そうそう。首を縦に振って、ハイと言うのは簡単だけど、結局、後で却って迷惑を掛けるからね。いつまでも入りません、入りませんと言うと、逆に迷惑を掛けるから、そこはちゃんと説明して、言われて、「いや、一杯で入りません」と簡単にそういうものの言い方だけはしないようにちゃんと注意しておきましたけどね。
▲最後の交流重賞勝ち 2014年の名古屋グランプリ(エーシンモアオバー)
-:沖先生の馬に対する接し方というのは、他の先生はちょっと違う気がしていたのですが、すごく馬が好きなのだろうなというのは感じていて、去年もEコースに入らない馬か何かを、先生自ら馬場に付いていって、調教をされていて、何か大変そうだなと思って見ていたのですが、そんなことまでする調教師の方もいないと思いますね。
沖:基本的に調教師の前半の方は、牝馬を主流にやっていたんですよ。そうすると、現役を終えてから繁殖として牧場に戻れる馬が多かったから。やっぱり牝馬は、特にそうやって牧場に戻ってお母さんになれるのが、余生としては一番幸せだろうから。ただ、やっぱり馬は命懸けですから、それを十分に頭に入れてやっていましたけどね。
-:丁寧に仕事をされているなという感じで、今の時代だから、入れ替え、入れ替えですから、そんなに1頭に時間を掛けるというのは。
沖:だから、僕はどちらかと言うと、手元に置いてやりたい方だから、本来なら具合の悪い馬、癖の悪い馬ほど自分のところに置いておいて、やらないといけないのだけど、(トレセンから定期的に)出し入れしている人たちも、今のルールの中ではそうやらないと競馬に出られない現実があるので。競馬会の人たちには、「『規制緩和、規制緩和』と言いながら、みんが同じやり方をしないとやっていけないじゃないか」という話はしたことがあるけど、そういうやり方をしている人たちが悪いということではないし、そういうやり方をしないと出走回数が増えないというのが現実なのですよ。放牧に出しておいて、その間に戻ってきて、レース間隔を空けて、また使う。だから、出走回数というのは、ウチはいつも少ないかもしれないですけど、出来るだけ手の掛かる馬ほど自分のところで、という気持ちは持っていましたけどね。
-:そういう付き合い方をしていくのが、競走馬との本来の価値観だという気がしますけどね。
沖:ただ、やっぱり時代の流れですからね。だから、ウォーキングマシンという話もあるけど、やっぱり人の手で扱いたいなというのはありますけどね。育成場ではやっぱり人件費の問題が一番あるから、それを補うためにはウォーキングマシンもやむを得ないですけどね。
-:トレセンの中というのは、金銭的にも一番恵まれている環境ですから。ウォーキングマシンを使うというのは…。
沖:確かに人件費が狭められてきているけど、やっぱり人が接して扱えていけたらなと思いますけどね。
-:これだけ長く携わってこられて、先生にとっての競馬というのは。
沖:トレセンに来る間際まで、まさか自分が競馬の世界に入るとは思わなかったので、好きな動物と一緒にいて、生活が出来てきたということは本当に幸せだと思いますけどね。動物の仕事なら犬でも猫でも何でも良かったのですが、だから上野動物園も可能性があったし、大学の先生には「お前、アフリカの方に行かないか」と言われたこともあります。動物の関係で世界を飛び回っている人がいたので、そういうこともあったけど。
-:でも、これだけの功績を思うと先生が馬の仕事をしてくれたことがありがたいですね。大学は農業大学を出られたんですよね。
沖:そうですね。付属高校からですね。小学校の時の寄せ書きに、将来は北海道に行きたいと書いたことは覚えていますけど、漠然と牧場で働くイメージでしたね。
-:調教師人生を振り返っていかがでしたか。
沖:まとめるのは難しいですけど、本当にアッと言う間に、調教師の定年になっちゃったという感じですからね。
-:アッという間の感じですか。
沖:長かった感覚が全くないということは、ある意味、充実していたんだと思いますけどね。
-:すごく充実していたのでしょうね。
沖:そんな気はしますね。とりあえずここまでは良い人生だったと思いますよ。
-:最後に、競馬ファンにメッセージをいただけますか。
沖:やっぱりファンに応援してもらってこその競馬の世界ですから、スターホースもその時代、時代に応じて一杯出てくるでしょうけど、長い目で見ていただいて、種馬の仔がターフに戻ってきたりもしますし、繁殖牝馬の仔もまたターフに戻ってくるので、そういう繋がりも一つの楽しみとして、これからも競馬を応援して欲しいなと思います。
-:エリモシックの時のように、お母さんの名前を見て、これは沖厩舎で走っていた馬だぞと思い出すこともあるかもしれないですね。長々ありがとうございました。
プロフィール
【沖 芳夫】Yoshio Oki
1949年2月28日生まれ。東京都出身。東農大一高、東農大、牧場勤務を経て1977年に大久保石松厩舎の調教助手となり、1986年に調教免許を取得。翌1987年に厩舎を開業した。1994年から所属した渡辺薫彦騎手(現調教師)とは親子のような固い絆で結ばれ、多くの管理馬に騎乗。1999年には同騎手とのコンビで菊花賞を制している。元々は生産を志していたことから、牝馬の育成に力を入れ、調教助手時代に携わったエリモシユーテングからはエリザベス女王杯を勝ったエリモシック、繁殖牝馬として多くのオープン馬を産んだエリモピクシー姉妹が産まれている。今年の2月一杯で定年の為、調教師を引退。JRA通算5911戦478勝(重賞13勝)。