【第二章】騎手の醍醐味、精神論とは
2015/3/8(日)
-:お二人の共通点として挙げられる点に「有馬記念ジョッキー」という功績があげられると思います。戸崎さんは昨年、ジェンティルドンナで有馬記念を制したばかりです。改めてあのレースを振り返るといかがでしたか?
圭太:ジェンティルにとって中山は初めての挑戦で、コース適性はやってみないとわからなかったですが、あれだけの馬ですし、不安は何一つなかったです。思いっきり乗ることが出来たというのも、良い結果につながったのかと思うんですよね。ジェンティルは“持っている馬”だとも感じましたし、色々なことが噛み合った一戦であったと思いますね。
増沢:あの馬はエライね。歳を取った牝馬でしょ。僕も有馬記念は2回獲ったが、2回とも3歳馬なんだよ。
圭太:へぇ~、3歳で有馬記念とは、またそれもなかなかいないですよね。
増沢:その代わり、天皇賞を獲っていないんだ。それは、自分のお手馬はみんな若くて脚がダメになっちゃう。何でもなければ、天皇賞も何でも勝てる能力があっても、脚が持たないんだ。ダービーも2回勝ったのに、(その後は)2回とも脚が持たないでダメ。
圭太:初めての重賞がダービーですよね。それも異例ですよね。初めての重賞がダービーってビックリですよ。
増沢:調教師になった時も、初めての勝利がG3であったし、僕はちょっと変わってんな、ハハハ。君と違って、僕は最初から大したことなかったから。本当の雑草だよ。みんなに踏んづけられても芽があった。そういうようなもん。ユタカ(武豊騎手)のように華やかでなかったから。
圭太:それでも、その年齢から成績を上げられたのが素晴らしいですよね。そういう人もいないと思います。
増沢:遅咲きも相当遅いぞ(笑)。普通ならみんな辞める頃だ。僕らの時であったら、大体40歳を過ぎれば「余生に厩舎を持つか」というようになるから。それからずっと100(勝)。あの当時に90~100勝つというのはなかなか大変。
-:それだけの年齢になりながらも、それだけの勝ち星を重ねたというのは、なかなか並大抵のことではないということですよね。今でこそ武豊騎手がその名をほしいままにしていますが、そういう意味では元祖「記録男」という感じですね。
▲有馬記念を制しジェンティルドンナに有終の美を飾ったことは記憶にあたらしい
増沢:やっぱり、「記録、記録」と自分でそういう風に思っていたよね。何でも僕が一つでも勝てば記録だ、そう聞いたら狙いにいくよね。だから、おかしな記録もいっぱいあるんだよ。それはレコードだね。ハナに行って、スピード勘が良いでしょ。今はもらえないが、レコード賞という純金のメダルをくれたんだ、当時は。あれを50回くらい出したんじゃないか。いっぱいあったんだから。
スタートで出す時は、「よし!今日はレコードを出してやろう!」と思ってハナで乗ってね、ヘヘヘ。そういう面白さもあったよ。戸崎君も大井にいた頃より今は面白いでしょ?毎日、毎日乗っているというのも面白いかもしれないが、1週間で土、日だけ開催日があるというのも良いのよ。
圭太:地方競馬時代に毎日乗る楽しさもありましたが、今は自分なりの時間を使えて、今なりの楽しみはありますね。今でも地方に乗りに行くこともありますが、平日は体のメンテナンスに充てています。精神的な切り替えもしやすいですね。
-:先生とはいえば“鉄人”という異名を取られていたと思うんです。
増沢:鉄人? 今は“鉄瓶”だよ。
圭太:ハハハ。どういう意味ですか?
増沢:今はパタンと倒れたら壊れる(笑)。そうそう、土、日で4回落ちたことがあるよ。でも、ちょっと足が痛いくらいで何ともなかった。盲腸で朝から痛くて、それでもNHK杯が終わるまではずっと乗っていたんだ。乗り終わって、すぐに救急車が来て、1週間で帰ってきて8日目から馬に乗って。重湯、おかゆを食べないで、いきなりうな重を食べたんだから。盲腸を手術すると、重湯やお粥のように柔らかいものが当たり前だが、いきなりうな重を持ってきて、ヘヘヘ。だから、みんな「鉄人、鉄人」と。
-:戸崎さん、それに勝るようなエピソードはないですか?
圭太:ないですね!そりゃあ、ないですよ。ハハハ。
増沢:風呂に入って立とうと思ったら、ギックリ腰だよ。パンツは履けないし、1レースは乗るし、どうしようかなと。「よ~し、このやろう、乗ってやろう」と思って、パンツを履かせてもらって。靴だって独りで履くのがやっとこよ。それでも乗ったよ。
圭太:え?ギックリ腰で乗ったんですか?
増沢:それでもメインレースに勝った。歩くのがやっとこだよ。乗せてもらうときなんて痛いんだ。でも「痛い、痛い」と思うからダメなんだ。「何くそ、このやろう!!」と。スタートを切ったって、ガァーンと行ってても痛いよ。それが乗ってしまったら、追うことは全然何ともないのよ。僕がそういうようなことをやったからと言って、やれと言ったって出来ないから。
-:ご本人は恐縮もあると思いますので、こちらから紹介させていただくと、戸崎さんのエピソードとしては、中央を受ける度に受験勉強もしつつ、平日は地方で乗って、中央にも乗りに行って、それが2~3週間続いた時もあったというのは、一つのエピソードでもいいのではないでしょうか。
圭太:そんなもので良いのですかね。それくらいしかないですが……、フフフ。
増沢:でも、あんまり無理しちゃダメだよ。あと、これから勝つためには頭の回転だよ。それは勝負勘だわな。競馬はスタートがどうかに尽きるから。僕のスタート時のコツは、内側の馬が最初に(ゲートに)入れられちゃて、一番最後に大外の馬が入るでしょ。だから、それを見ているのよ。その馬をずっと見ていて、あれが入ったら入るんだなと。それまでは黙ってボケーッと見てるんだよ。向こうが入ったらサッと用意してね。それが一番だよ。蛯名(正義騎手)なんか、よく聞きに来たんだよ。「スタートはどうやったら良いんですか?」と。「そんなの僕が言ったからといって、分かる訳がないだろう」と当時は言ったね。
圭太:ハハハ。そのコツを僕は今聞いてしまいましたが……。
増沢:自分で考えて、自分で覚えなきゃダメだって。僕の場合は、一番向こうの枠の馬をよく見ておく。それだけ気を付けていれば、絶対スタート良く出られる。
圭太:そう聞くと、スタートはやっぱり肝心だなと。名手の秘訣も教えて貰えましたね。
プロフィール
【増沢 末夫】Sueo Masuzawa
1937年10月20日生まれ、北海道出身。
中学卒業後に騎手を志し、'57年3月に鈴木勝太郎厩舎より騎手デビュー。'66年に日本ダービーを制し、重賞初勝利でダービージョッキーの 称号を獲得。以降は関東のトップジョッキーとして長きにわたって君臨し続けた。大井から移籍しアイドルホースとして親しまれたハイセイコーの主戦としても知られており、ハイセイコー引退に際して発売された『さらば、ハイセイコー』は45万枚を売り上げる異例の大ヒットを記録。
44歳で初の全国リーディング獲得、史上最年長(48歳7か月)でのダービー制覇、53歳で年間100勝、さらにその翌年にはJRA史上初 (当時)の通算2000勝達成と現役晩年にかけて数多くの記録を打ち立て、息の長い活躍から『鉄人』と呼ばれ親しまれた。
'92年に騎手を引退、翌年には調教師に転身し、2008年に惜しまれながらも定年引退。その後も競馬ラボをはじめ、他方面で競馬界に貢献を続けている。長男・真樹の嫁に元騎手の増沢(旧姓牧原)由貴子がいる。騎手としての通算成績は1万2780戦1719勝、調教師としての通算成績は3107戦272勝。
【戸崎 圭太】Keita Tosaki
1980年7月8日生まれ、栃木県出身。
'99年に大井競馬の香取和孝厩舎所属としてデビュー。初騎乗初勝利を飾るなど、若手時代から存在感を放っていたが、'08年に306勝を上げて初めて地方全国リーディング獲得し、一気にブレイク。その後は地方競馬No.1ジョッキーとして君臨。また、徐々に中央競馬でのスポット参戦も増えいった。
'11年には地方競馬在籍の身ながらも、安田記念を制して初の中央G1勝ち。その名を全国に知らしめると、同年に中央移籍の意向を表明し、JRA騎手試験を受験。自身3度目となる受験で晴れて合格し、'13年3月から中央入りを果たした。
移籍初年度も年間113勝をマークすると、移籍2年目は146勝をマーク。ジェンティルドンナで有馬記念を制す、劇的な幕引きでリーディングを獲得した。