第二章「改善すべきトレセン、レースの在り方」
2015/4/24(金)
馬主・騎手目線の公開枠順抽選
-:昨年は中山競馬場の検量室前を改装したじゃないですか。その反響はどうですか?
西川:あの検量室は初め逆さまだったの。それをジョッキーが「何とかしてくれないか」と。調教師に言っても、競馬会が言うことを聞かない。それで、僕が頼まれたの。右と左を変えるだけで、溜まりがここにできちゃったら、検量室に入ってきたジョッキーを見られる方が良いだろうと。それで逆さまにしたの。競馬会も言い通すとやるのですよ。例えば、有馬記念でも公開抽選をやりましょうと、3年前から言っていたんですよ。
-:賛否両論ありましたが、画期的ではありましたよね。
西川:ああいうやり方をするから賛否両論があったのでしょうね。有馬記念のレセプションで1時間前にやれば、あの場には全部来るでしょ。全マスコミが来て国民的行事になって、そういうパフォーマンスをJRAはやってもらいたいんですよね。だから、納得する人があのクジを引かないとダメ。あれはマー君(田中将大投手)で納得したのでしょうが、あれほどの有名なアスリートがやるか、セガサミーの里見さんの馬が出走したなら長嶋さん(長嶋茂雄氏)が引くとかね。その代理が全てタレントで、そういったパフォーマンスをやらなきゃいけない。そこでジョッキーと相談して、ゲートに早く入れてしまった方が落ち着く馬もいれば、あとから入れた方が落ち着く馬もいる。そういうのは駆け引きだからね。
-:安藤さんから見て、あの枠順抽選会はどうすれば上手くいきますか?
安藤:自分で決めるというのはあんまり良くないかなと思いますよ。反対に、代理の人が引いて何番と発表する方がスカッとするかもしれませんね。それが運ってものですから。この前は何か雑然としていて、どの枠が良いのか分からなくなってしまったからね。
西川:例えば、カゴの中に入れておいて、ジョッキーに引いて下さいと。
安藤:その方がハッキリしていてわかりやすい。自分で決めるというのはあんまり意味がないですよね。そこで妙な駆け引きは必要ないのではないかな。
▲初めての試みで話題を呼んだ有馬記念・枠順抽選会
-:あの企画は今年も続いて行くのでしょうか?
西川:まだ分からないですね。G2、G3で小手調べをするのも手ですよね。それで、どの方法が一番良いか。競馬会はそういう策を試していかなきゃいけないですよ。
安藤:少なくとも、G1は公開で抽選をした方が良いかもしれません。絶対に公正だということを見せないと。有馬の時だけ特別に変えたり、そういうのも良いかもしれませんが……。今回初めてそういうイベントがあって、自分で決めるというのはすごくモヤッとした感じで、西と東に分かれてトレセンではモタモタしていてね……。
西川:続けていくには、どの方向が有馬記念にピッタリしているかというのを出すべきですね。桜花賞やオークス、ダービー、宝塚記念で試して、有馬記念ではこうなるよ、というのを、試しながらやらなきゃダメですよね。何パターンか考えないと。
安藤:実際やってみないと分からないからね。取りあえず今回やったのは画期的ではあったので。
西川:あれはドバイ式でやったんだよね。中山馬主会の会報でユタカちゃん(武豊騎手)と理事長の3人で対談をしたの。その中で「ぜひとも有馬記念の公開抽選をしてくれ」とユタカちゃんが言ったんだよね。それで「ドバイでも海外のレースでもみんなやってるから、日本の野球のドラフトもそうだし、それはやるべきだろう」と。
安藤:それが話題になるからね。有馬記念の宣伝になるわけだし。
西川:そうやって言い続けないと競馬会は変わらないんですよ。
プロフィール
【西川 賢】Ken Nishikawa
1948年8月24日生まれ 東京都出身
東京都台東区出身。冠名はウエスタン、勝負服の柄は黄。芸能プロダクション「新栄プロダクション」代表取締役社長であり演歌歌手(芸名・山田太郎)。1968年に弱冠20歳(当時史上最年少)で馬主資格を取得。1975年に法人馬主である西川商事株式会社の代表に就任。1997年、再び個人馬主に戻る。現在は日本馬主協会連合会副会長、中山馬主協会会長、東日本馬主協議会会長を務めている。北海道日高郡新ひだか町に生産牧場ウエスタンファーム(旧有限会社北西牧場、2009年名称変更)を持ち、所有馬のほとんどを自家生産しているオーナーブリーダー。
プロフィール
【安藤 勝己】Katsumi Ando
1960年3月28日生まれ 愛知県出身
76年に笠松競馬でデビュー。78年に初のリーディングに輝き、東海地区のトップ騎手として君臨。笠松所属時代に通算3299勝を挙げ、03年3月に地方からJRAに移籍を果たす。同年3月30日にビリーヴで高松宮記念を勝ちG1初制覇して以降、9年連続でG1を制覇。JRA通算重賞81勝(うちG1・22勝)を含む1111勝を挙げ、史上初の地方・中央ダブル1000勝を達成。13年1月惜しまれつつ騎手人生に終止符を打った。「競馬の素晴らしさを伝える仕事をしたい」と述べており、さらなる競馬界への貢献が期待されている。