第4章「レジェンド・山本昌さんからの金言」
2015/12/6(日)
-:そして、長いキャリアの中で大きな転機になったことが、お2人共にあったと思うのですが、それぞれそういったお話を伺えればと思います。若い時の自分をグレードアップさせてくれたキッカケになるような出来事、心境の変化についてのエピソードを伺えればと思います。
昌:僕は、ドラフト5位で入りましたので、正直、全然期待もされていませんでしたし、実際にプロに入って5年目の給料が、その時のルーキーの立浪選手が高卒の1年目で、彼の半分だったんですよね。4歳上の選手が立浪選手の半分の給料で野球をしていた訳ですが、その88年にアメリカに留学させてもらうんですよね。当時「1軍では必要ないから、お前はアメリカに行って来い」というような扱いだったんですが、アメリカで色々なことを覚えまして、それが転機になりましたね。
良い指導をしていただいたり、試合でたくさん投げさせていただいて、色々覚えたり。一番大きかったのはナイターに慣れましたね。それまで、1軍で4試合投げたことがあったのですよ。ナイターになるとキャッチャーが小さく見えるんですよね。それで、平常心で投げられない、というのがパターンだったのですが、アメリカのフロリダでリーグをやっていましたから、暑い中なのでナイターしか出来ませんから、ナイターをやっていく内に場慣れしたことが大きかったですね。
日本に帰ってきてからやっと勝ち始めて、5年目に入るまでは1軍に上がりたいが目標だったのが、日本に帰ってきて勝ち始めて、今度は勝ちたいに変わり、2ケタ勝ちたい、タイトルが欲しい、そういう風に段々上がっていきましたね。だから、88年のアメリカ留学をさせていただいたのは、島流しに近かったですが、あれで人生が変わりましたね。
太:日本にいたら、そこまで投げる機会を与えられなかった訳ですね。
昌:そうですね。チャンスもなかったでしょうし、1軍に行きたいがために色々なことを試せなかったでしょうし、あの年に捨てられたと言ったらオーバーですが「今年は、お前はいらないか、あっちに行って勉強していなさい」と言われたことが、むしろ大きかったですね。
-:アメリカに行った時に、ここで何とかしなければ自分は終わってしまうという意気込みを持ってアメリカでやっていたのですか。それとも、それはそれで環境を楽しみながら、気が付けば日本で成功していたみたいな感じですか?
昌:いや、アメリカ留学に行かされる前に、今年で終わりだなと思ったんです。先ほども言いましたが、ルーキーの高校生の給料の半分でやっていると言ったら、そろそろ……。それで、キャンプから頑張っていたのですが、その年は頑張ってオープン戦の開幕投手に指名されまして、そこで打たれたので「アメリカに行って来い」と言われました。
アメリカに行く前は最後のつもりで頑張っていましたね。最後のつもりで今年頑張ろうと思ったら、いきなり打たれて「アメリカに行け」と。決して僕自身、前向きな留学ではなかったのですが、最悪だったはずのことが転機となり、日本に帰ってきた時は勝てるピッチャーに成長していたということで、あれがなかったらあのまま終わっていたでしょうね。
-:ジョッキーの世界でも、今は若い騎手の中でも乗る機会が少なくなってしまっている人も中央では多いと思うのですが、そういう意味では小牧さんの場合は、何か大きな転機はあったのですか?
太:僕の場合は地方からJRAに移った時です。安藤勝己さんが地方から移籍した最初のジョッキーだったのですが、僕は地方から2番目だったんですよね。安藤さんが中央に入られて、G1をバンバン勝ってすごい活躍だったんですよね。その後に僕が入ったもので、ファンの期待というのがね……。今考えたら関係ないことで、自分なりにやれば良いと思っていたら良かったのですが、それに応えようと思ってすごく硬くなっていました。何をするにも、地方から行っていた時の方が上手く乗れていたというか、おかしくなるのが自分でも分かっていたほどです。ユタカ君にも「地方から来ている時の方が乗れていた」と、あとになってそんな事を言われましたよ。それでもポツポツとは勝っていたのですが、それが5年目でやっとG1を勝ちまして、何かそれでちょっと吹っ切れたかなという感じでしたね。
-:やっぱりレジネッタの桜花賞が大きかったのですね。
太:そうですね。もう4年目で、半分勝たれへんのちゃうかな、という気分になっていたので、それが大穴というか、勝つ自信はなかったのにポッと勝って、それが一番嬉しかったですね。
-:地元では超一流ジョッキーだった方が中央に来て、そういった改めてプレッシャーでそうなってしまうというのは……?
太:やっぱり何事にも力が入ったらダメですよね。
-:そういうのは野球にもありますか。力が入って気負った時は良い結果が出ませんか?
昌:勝てない時は一生懸命やっていましたが、全てが空回りしているという、そんなことをやってもダメなのに、と本当は分かっているのに一生懸命やったり、試合でダメな方をすぐにやっちゃうとか、そういうことだと思いますけどね。やっぱり経験って大事だなと。今、聞いていたら、レジネッタなんですね。レジネッタの子供がG1レーシングの一口で募集されたりしていますが、一口に乗ってぜひ乗って欲しいなと思います。
太:ええ、お願いします。今、宇治田原ステーブルにいて、ちょうど乗りに行こうかと思っていたところなんです。
昌:じゃあ、レジネッタの子供だとちょっと思い入れが強いですか?
太:そうですね。その兄のレジメンタルも一昨日出ていましたね。
昌:レジネッタは大体キンカメを付けているので、来年の子供はどうなんだろうな。今年の募集は終わってしまいましたが、万が一、キャンセルが出たら行こうかなと。
太:ハハハ、ぜひ行って下さい。
昌:浅見先生のところですね。だから、もし一口で買えたら、小牧さんに。今募集されているのがキンカメなので、ずっとキンカメが付けられていますね。まあまあ、サンデーの直仔なので、今年はルーラーシップかもしれませんしね。楽しみですね。じゃあ、今度それを指名しよ。「ぜひ小牧さんに」って。
太:ええ、お願いします。山本さんが言ったら、力があると思いますよ、ヘヘヘ。
昌:しかし、僕も40分の1の出資で馬主になる訳で、本当にそういうシステムも夢があって良いですよね。
山本昌「本当に諦めないことですね。まだ、キツくなったなということを思わなければ、いや、まだやるんだ、という気持ちさえあれば、まだまだ出来ると思います」
小牧太「はい、頑張ります。僕も減量もあるので、飲める日は限られますが、普段からもトレーニングは欠かさずやっているので、参考になります。アスリートの先輩であり、やっぱりこれだけの実績を残された方の言葉ですから、すごく参考になります」
-:最後に、先に現役を引退された山本さんからアドバイスというよりは何か一言いただきたいのは、体のメンテナンスもそうですが、これから現役を続ける秘訣を、小牧さんに何かあればお願いいたします。
昌:僕も32年やりましたが、小牧騎手も技術は今が最好調だと、技術は年々上がっているだと思っているはずなので、あとは体のことだけですから。僕は幸い腰が悪くならなかったんですよね。他は随分と衰えましたが、実際準備期間をしっかりとって調整していけば、と思います。ちゃんと練習をすることが大事ですよね。昔は3~4日の練習で出来たものが10日、1カ月掛かってしまいますが、そういうものを継続してきちんと体調管理をして行けば、まだまだ出来ると思いますので。
ピッチャーというのは1試合投げるとすごい体力を使いますが、体調さえ整えば出来ましたので、小牧騎手もJRAに来てまだ11年、もう10年乗っても良いんじゃないですか。あと12年で60まで乗って、数々の記録を更新してほしいなと。本当に諦めないことですね。まだ、キツくなったなということを思わなければ、いや、まだやるんだ、という気持ちさえあれば、まだまだ出来ると思います。
ただ、節制するのも段々時間が掛かってきたでしょ。昔は飲んで次の日もニ日酔いもなく、飲んで少し寝て調教を付けたり出来たでしょうが、今はキツいですもんね。僕も、今日はちょっとの練習をしなきゃアカンなという時も、昔は朝まで飲んでいても平気だったですが、さすがに今は12時には寝ようかなとなってきました。そういう風に1つポイントを押さえて気を付けていけば、まだまだ出来ると思うので。こうやって今日はご縁ありましたので、ぜひ応援していきたいなと思います。
太:はい、頑張ります。僕も減量もあるので、飲める日は限られますが、普段からもトレーニングは欠かさずやっているので、参考になります。アスリートの先輩であり、やっぱりこれだけの実績を残された方の言葉ですから、すごく参考になります。
昌:今回はありがとうございました。
太:ありがとうございました。
-:今回は私もタメになるお話をありがとうございました。小牧さんには引き続きジャパンCなどヒットザターゲットでG1での健闘を。山本昌さんには、引き続き競馬ライフを追わせていただくと思います。ファンの皆様もご期待いただければと思います。
プロフィール
【山本昌】 Masa Yamamoto
本名:山本昌広
1965年8月11日生まれ 神奈川県出身。
日大藤沢高から1983年のドラフト5位で中日ドラゴンズに入団。1988年に留学先のアメリカで代名詞ともいえるスクリューボールを習得し、優勝争いに加わっていた同年夏に帰国すると、8試合で無傷の5勝を挙げてリーグ優勝に貢献する。1993年に最多勝、最優秀防御率の2冠、翌年は2年連続最多勝に輝き、投手最高の栄誉である沢村賞を受賞。97年に3度目の最多勝を獲得するなど球界屈指のサウスポーとしてドラゴンズの強力投手陣を支えた。2006年9月には史上最年長でのノーヒットノーランを達成。2008年8月には史上24人目となる通算200勝を達成し、40歳を過ぎてからも卓越した投球術で勝利を積み重ね、50歳を迎えた今年、史上最年長登板記録などを更新し、31年の現役生活にピリオドを打った。通算219勝165敗。
私生活では多趣味な一面もみせ、競馬にも精通。既に一口馬主の出資も始めており、期待の2歳馬リライアブルエースにも出資している。
【小牧 太】 Futoshi Komaki
1967年9月7日生まれ、鹿児島県出身。1985年に兵庫県競馬組合の曾和直榮厩舎から騎手デビュー。当時の兵庫県競馬はアラブのみだったが、当地で重賞57勝をマーク。兵庫リーディングを10度、全国リーディングも2度獲得と、地方競馬で一時代を築く。
'01年頃から中央での騎乗も増えると、01~02年と2年連続で年間20勝以上をマークし、'04年にJRAへ移籍。そして、'08年の桜花賞でレジネッタに騎乗して涙のG1初勝利を挙げると、翌年にも恩師・橋口弘次郎師のローズキングダムとのコンビで朝日杯FSを制覇。2度目のG1勝利を挙げた。大ベテランと呼ばれる年齢を迎えた今も、G1制覇を目標に日々、努力を続けている。